〔 根付く 〕
山あいに生きる
人びとの智恵
徳島市内から車で約2時間半はかかる。
ここは日本三大秘境のひとつ、祖谷(いや)周辺。
人びとは山の急斜面に家を築き、畑をつくり、
集落内の高低差はなんと390mあるところも!
まるで天空に生きるような人たちの、美しくも力強い暮らしに出合う旅。
photo_Kazumasa Harada text_Kanami Fukuda (euphoria factory)
天空の集落で連綿と受け継がれてきた暮らし
曲がりくねった山道から集落に入ると、道はさらに細く急になった。あたりの斜面には、へばりつくように石積み(石垣)で支えられた畑が広がり、その間に家々が建っている。
ここは美馬郡つるぎ町の三木枋(みきどち)集落。永続的に暮らすのはたった3世帯だ。そのひとつ、磯貝家では、勝幸さん、ハマ子さん夫妻が農業をしながら、農家民宿〈そらの宿 磯貝〉として旅人を受け入れている。
にし阿波地域の険しい山の斜面中腹には、こうした集落が数多くある。本来は耕作が難しい急斜面に畑をつくり、知恵を絞って自給自足的な農業を行ってきたのだ。世界的にも珍しい独自のスキルと土地の活かし方が評価され、にし阿波の「傾斜地農耕システム」は2018年、世界農業遺産に認定されている。
斜面を開拓した限られた土地では、雑穀を中心とした作物を時期に応じてつくる多毛作が基本。作物の植え替え時期には、斜面の下に向かって徐々に落ちていく畑の土をかきあげて戻す「土上げ」をしながら、等高線に沿って畝(うね)をひく作業が欠かせない。
この集落で生まれ育った磯貝さん夫妻の息子、一幸さんは笑う。彼は結婚を機に隣町に移り住んで会社勤めをしていたが、高齢になった両親の姿を見て、この集落での暮らしを引き継ぐ決心をしたという。いまは家族が暮らす隣町から車で通って農業をしている。
実はハマ子さんも大阪での会社勤めなどをへて、この集落にやってきた。いまから47年前の話だ。
「最初のうちはどの作業も、なんでこんなに手間のかかることをやるのかわからなかったけど、いまでは、理由があって昔の人がひと手間ひと手間加えていったことがわかる。効率は二の次なんよ」(ハマ子さん)
翌朝早く、磯貝さん夫妻はまた庭先に出て、こんにゃくの仕込みなど、それぞれの仕事を始めていた。
阿波女(あわおんな)たちは働き者
三木枋から池田町をへて祖谷へ向かった。途中、〈ハレとケ珈琲〉に寄ってひと息つきつつ、山に雪がしんしんと降り積もる景色のなかを、祖谷渓を見下ろしながら静かに進んだ。
翌朝、東祖谷落合の〈栗枝豆腐こんにゃく店〉を訪ねた。豆腐店の朝は早い。7時ごろに着くと、すでに大きな豆腐が次々とでき上がっていた。
この店で豆腐をつくっているのはもっぱら女性だ。栗枝さん一家の三姉妹、長女・澄代さん、次女・有紀美さん、三女・佳代さんと長男の妻・美香さんがテキパキ作業をこなしていく。木綿で包んだ15丁分の豆腐のかたまりに、重しを1時間程度のせる。そうしてできた豆腐はギュッとつまっていて見た目よりもはるかに重い。それらを軽々と持ち上げて型を抜き、手際よく切っていく女性たちの所作は実にすがすがしい。
「食べていきなよ」と三女の佳代さんができたての豆腐を出してくれた。モグモグと食べる豆腐は、大豆そのままの甘みがつまっている。たったひと皿でご飯一杯を食べたような腹持ちのよさだ。彼女たちのエネルギーの源に触れたような気がした。
平家の末裔たちとも伝わる祖先の誇りと知恵
祖谷では平家の落人伝説が語り継がれている。集落を築いた山の中腹の斜面は、耕作も難しいため、生きる場所として積極的に選んだとは想像しにくい。落ち延びた平家一族が身を隠すように山奥に身を置いたのではと考えられているのだ。
平家の落人伝説は全国に残されているが、ここには信憑性のあるエピソードが数多く残る。たとえば墓の風習。ひと昔前まで集落の墓地はなく、各戸の敷地内に置いた墓には大きな墓石は建てず、目立たないように平らな石を置いていた。また、この地域で話されていた方言が、公家言葉に由来するという証言もある。
〈古式そば打ち体験塾〉を営む都築麗子さんは77歳。「私が子どもの頃、まわりの大人たちが話していたキレイな公家言葉を、いまの人にも聞かせてあげたい」と話す。彼女が生まれ育ったのは、東祖谷の山の斜面に築かれた集落。実家で食べていた古式そばを、当時の製法でつくる体験教室を開催している。
都築さんの幼少期、そばといえばそば切り(麺)ではなく、そばがきだった。客人が来たときだけ、そば切りを出してもてなしたそう。生醤油を入れた小さな椀に、わんこそばと同じ要領で次々とそばのおかわりを入れていったそうだ。
都築さんは、この店を地元の同世代の友人たちと切り盛りしている。外国人のお客さんとも、持ち前の明るさでコミュニケーションをとって楽しるさでコミュニケーションをとって楽しませる。祖谷の女性たちはよく笑い、よく働く。楽しい会話が飛び交う昼休憩が終わったと思ったら、休む間もなく今度は餅の製造に入った。また、ワイワイと冗談を言い合って楽しそうだ。とはいえ誰も手は止めず、餅は次々にできあがっていく。
東洋文化研究者アレックス・カー氏が見た天空のふるさと、祖谷
若かりし頃に祖谷にめぐり合い、自身の家「篪庵(ちいおり)」を宿泊施設に
生まれ変わらせたアレックス・カー氏に祖谷の魅力を聞いた。
取り残された秘境の暮らし
祖谷との出合いは 1971年の学生時代でした。全国をヒッチハイクで旅していて出会った日本人の学生が、「君が好きになりそうな場所がある」とバイクの後ろに乗せて連れてきてくれたんです。その日は深く霧が立ち込めていました。険しい山々と斜面にはりつく茅葺きの家が霧の切れ間に見え、その風景にすっかり惚れ込んでしまいました。
祖谷は昔から開発が遅れていた地域です。地理的に隔絶され、自給自足を余儀なくされた暮らしのため、経済的に弱かった。それゆえ古来の生活様式が残されていました。
祖谷の家は一般的な日本家屋と異なり天井がなく、梁や茅葺きの屋根が剥き出しになっています。換金作物として生産するタバコを、梁から吊るして囲炉裏の煙で乾燥させるためです。吹き抜けで広い家の中は真っ暗。囲炉裏を家族で囲んで座っていても、すぐ近くに暗闇が迫っている。おのずと妖怪や幽霊の話題にでもなったのか、この地には伝説や妖怪話がたくさんあります。
そのうち、落合集落にある家屋を見つけて手入れしながら暮らすようになりました。当時は子どもが集落にたくさんいて、私の家にもよく遊びにきて賑やかでしたね。大人たちも外国から来た私をフレンドリーに受けいれてくれ、生活の知恵などを惜しみなく教えてくれました。
実際、祖谷での暮らしは大変です。いまは過疎化が進み高齢者ばかり。それでも、若い移住者が以前の私のように祖谷の美しさに惹かれてやってくることを望みます。現代において昔のような不便な暮らしをすることは現実的ではありません。これからの時代は、畑を耕すのではなく、アーティストやITエンジニアなど、外の世界に生きる糧(かて)があり、祖谷の環境がプラスに働くような人たちが来てくれるのではと考えています。
祖谷の風景は特別で素晴らしい。私は必ず、霧が出る梅雨の時期に訪ねることを旅行者に勧めています。まるで龍が躍っているかのように動く雲が下から湧き上がるようすを集落から見ていると、天空に暮らしている気持ちになります。そんな幻想的な風景を肌で感じるために、ぜひ古民家宿に滞在してほしい。それでこそ祖谷の美しい姿を感じられると思います。
Alex Kerr
アレックス・カー
1952年アメリカ生まれ。東洋文化研究者。著述家。1964年に父の仕事の都合で初来日。イェール大学で日本学、オックスフォード大学で中国学を専攻した後、日本に再来日。古典美術を研究しながら、古民家の活用プロデュースなどを行う。著作に『美しき日本の残像』(朝日文庫)、『犬と鬼』(講談社学術文庫)など。
「FRaU S-TRIP 2023年4月号 もっともっと
サステナブルな『徳島』へ」講談社刊より